大学院生の頃

大学院生の頃

自分の場合は特別なケースと思いますが、今でいう「アカハラ」を受けていたと振り返って考えると、感じます。
当時は、医局の人事以外では病院に勤務するのは難しい時代で、医局のシステムに従うしかありませんでした。僕の医局は、1年目は大学病院、2~4年目は関連の病院(ジッツと呼ばれている)で勤務して、5年目で大学に戻り、試験を受けて、6年目に入学し9年目で卒業、10年目から再び大学勤務になります。

僕は当時、研究志向で早く大学院に入学して、研究を始めたかったので、4年目の時に試験を受けて合格しましたが、医局から当然ストップがかかり、休学2年間後に進学出来ました。東大ではなく癌研究会(癌研)に国内留学して、希望の研究が出来る事になりました。
研究も上手く行って、学会発表、論文作成となります。東大の医局の内規があって、英文で2本の論文の実績をもって、その後博士論文の提出が可能になります。
従って、2本の論文がacceptになっていなければ資格が得られません。学会発表までは大変順調だったのですが、そこからが地獄でした。英文での論文作成は不慣れではありましたが何とか完成して、プロにお金を払って直してもらって、研究の指導者に添削をお願いします。東大であれば、数回のやり取りはありますが、1か月以内に完成して雑誌への投稿となります。僕は、何と2年以上完成しませんでした。理由は、指導者の怠慢か能力不足だと思います。当時でも、いくら忙しいと言っても年単位で添削しないのは考えられません。研究も日新月歩ですので、データーが古いとか、世界中の他の研究機関に先を越される可能性があります。僕自身、色々と努力しました。極力その指導者と行動を共にしました。例えば、ご自宅までの送迎、食事を同伴、学会も同伴等々)、でも変わりませんでした。唯々我慢して耐える日々だったのを覚えています。
結局、東大の先輩にご指導頂いて、その1週後には郵送(当時はメールでの提出は不可でした)出来ました。

これが、1本目、2本目もまた「アカハラ」?
研究は同時並行でいくつか行っていました。別のテーマでの研究も成果が出て、学会発表が終わって、英文で論文を作成していたら、今回の指導者Bから、先ず日本語で書くように指導されました。えっ何で?と思いましたが、従うしかありませんので書いて提出しました。
やはり、添削指導はなし。その1年後、その指導者は関西の大学の教授になって直接の指導は不可能になりましたが、再三お願いしていたので、見て連絡すると言い残したまま、また時間が経ちました。
その時は大学院入学後、既に5年が経過し休学の2年と併せて7年、大学院の猶予は8年ですので、残り1年。決死の覚悟で、英語で論文を作成して、京都まで尋ねました。大学を案内して貰ったり、話したり等で時間が経って、全然論文の話が進まない。仕方なく最後の作戦と考えて、ホテルの最上階で、食事(一人3万円以上の鉄板焼き)を僕がご馳走して、添削を重ねてお願いして東京に戻りました。その後、連絡なし。いくら僕の事が嫌いだったとしても、これはやり過ぎでは?と思いたくなる人、教室でした。仕方ないので事後承認でお願いするしかないと考えて、掲載を希望する雑誌に投稿してaccept、その上で指導者Bに連絡したところ、「あーそうか」だけ言われました。

そして次は、やっと博士論文の執筆となります。日本語ではありますが、最低100ページは書くように別の指導者Cから指導されていました。ところが当時の博士論文は重要な事項だけ書いて短めになる事が殆どで、余分な事を書いてもカットされる可能性が高い事も先輩から聞いて知っていました。当時は先輩に意見するなど許されない時代であり業種でしたので、「無理やり100ページ以上書くのは、古いみたいですよ」何て口が裂けても言えません。無駄な事と分かりながら進める事に、投稿論文と並行して行っていた事も相まって、もうこれ以上我慢の限界と感じ癌研に行くのを勝手にやめました。自分の人生の大切な時間をこれ以上無駄に出来ない。この時既に入学後9年が経過しており(満期退学の申請を出していました)、博士号の取得は絶望的でした。